「true tears」を巡る、のともえ(仮)氏と私との見解の相違について

id:notomoe氏の返答エントリ(「僕がtrue tearsを好きになれない理由」への反応について - のともえ(仮))を興味深く読ませてもらった。
私の元エントリ(Re: 僕がtrue tearsを好きになれない理由(第8話の感想に代えて) - しまうま技研)は、氏に"改宗"を迫ったものではない。 そもそも何かを好きになれなくても、それは個人の嗜好に深く根ざしたものであるから、他人がどう言おうとそう易々と変わる筈もない。
それでも先のエントリを書いたのは、この作品のクオリティの高さを認めながらも「好きになれない」のは単純に勿体無いと思ったことと、氏の自己分析やアニメへの向き合い方に釈然としないものを感じたことによる。


氏が言葉を尽くして書いているのに、なぜ釈然としないのか。
いろいろ考えた末、それは双方が「当たり前」としている前提が違うからだということに思い至った。 簡単に言えば「求めているものが違うから」という至極当然の結論なのだが、互いの観点が違うために話が噛み合わなかった、そういうことだと思う。


私は「true tears」に関しては、特に「テーマ性を強く帯びたストーリー」に魅力を感じている。
アニメに限らず、どんな映像作品にもそれなりにテーマがあるものだが、この作品は題名から容易にテーマを読み取ることが出来る。
その「真実の涙とは何か?」というテーマを、どのようなストーリーで描き出してくれるのか。 毎回、それを楽しみに観ているわけだ。
作品が違えば当然テーマも違ってくるし、キャラや世界設定も違う。 私は作品ごとに、その持ち味が最も表れている部分を楽しんでいる。 「マジカノ」ではキャラデザインとギャグに惹かれたし、同じくDVD全巻を揃えた「sola」では、"人ならざるもの"の悲しい宿命が心に残った。
作品をあるがままを受け入れ、良いところを評価したいと考えているので、そのあり方については規定しない。 これがアニメに対する、私の基本的なスタンスだ。


一方、のともえ(仮)氏はどうか。 最初に「true tears」への違和感が表明された2月25日のエントリには、こう書かれている。

僕の見たい世界というのはうる星やつら的な永遠の片思いのユートピアであって、欲望うずまく生のラブストーリーではない

第7話 「ちゃんと言って、ここに書いて」 - のともえ(仮)

これだけが氏の好みだとは思わないが、まず、観たいものがはっきりしている。 こう明確に自己規定してしまえば、確かに「true tears」は選から漏れてしまうだろう。
そして、先のエントリでも取り上げた3月2日のエントリの一節。

結局true tearsに描かれているリアルで痛々しい恋愛というのは、僕が萌えアニメに求めているものと徹底的に違う。

僕がtrue tearsを好きになれない理由(第8話の感想に代えて) - のともえ(仮)

この作品を萌えアニメと規定した上で、求めているものと違うとおっしゃる。 これを(引用しなかった部分と併せて)分かりやすく書き直すと、こうなるのではないか。

最初は萌えアニメだと思って観てたのに、期待したものと全然違っててガッカリだよー。
なのにクオリティは高くって無視できない。 何このアンビバレントな気持ち。

分かりやすくするために少々下世話な表現を使ったけれど、勘弁して欲しい。
このガッカリ感が「好きになれない」根本原因なのだろうが、そもそもそれは、最初にこの作品を「萌えアニメ」だと規定したからこそのものだろう。
のともえ(仮)氏は、こうも書いている。

もちろん僕にとってこの作品は決して楽しめないものではない。アニメーションの美しさ、演出手法の面白さ、それから下世話な好奇心を満たすという意味では、楽しめる。

僕がtrue tearsを好きになれない理由(第8話の感想に代えて) - のともえ(仮)

「下世話な好奇心を満たす」ってところが、何かやだなぁ(笑)…そんな規定をしない私は、この作品を「素直に」楽しめるんだけど。
作品を枠にはめて観るかどうか − これが氏と私の最も大きな相違点なのだと思う。
氏のスタイルが間違っているとは全く思わない。 ただ…

自ら愉しみの幅を狭めてしまうことになるんじゃないの?
(中略)
「アニメを楽しんでいこう」とするなら、作品のあり方をガチガチに規定しない方がいいと思う。

Re: 僕がtrue tearsを好きになれない理由(第8話の感想に代えて) - しまうま技研

私がこう書いた真意を、お分かり戴けただろうか?


後は、細かい話。

まず私は、この作品が「萌えアニメ」にカテゴライズされることに強い抵抗を感じる。
私の中では「萌えアニメ」というと、一にも二にも「ヒロインの可愛らしさ」を中心に据えて、それを最前面に押し出した作品ということになっているから。

確かにこの作品は全体としては萌えアニメにカテゴライズされるべきではないと思う。しかし、この作品は表面的には萌えアニメのフォーマットに従っている。例えばヒロインが全員主人公に恋愛感情を抱いているという点、「不思議ちゃん」キャラがいる点、原作がエロゲである点(追記:原作はエロゲではないらしい)。もちろん絵柄もそうである。

「僕がtrue tearsを好きになれない理由」への反応について - のともえ(仮)

ここでも「萌えアニメ」の定義に食い違いがあるように見えるが、これは氏が「『表面的には』萌えアニメのフォーマットに従っている」ことに惑わされてしまったのではないか、と私は考える。 結果的には「この作品は全体としては萌えアニメにカテゴライズすべきではない」と認めておられるのだから。
蛇足だが誤解の無いように言っておくと、この作品に「萌え要素」は間違いなくある。

true tears」が既存の作品によくある人物配置に従わなければならない理由は何もないと思う。

というのはむしろ、「既存の作品によくある人物配置に従」ってはいけなかったと言うべきだと思う。

「僕がtrue tearsを好きになれない理由」への反応について - のともえ(仮)

作品のあり方を「規定する」立場からはそういう結論になるのだろうけど、私は「規定しない」立場なので「従ってはいけなかった」とは考えない。 これはどっちが正しいとかいう問題ではないと思うけれど。
続く、

娯楽には大概「型」というものがあって、それに従って作るのが正しいこととされている。もちろんそれを破るのも自由だが、そうすると受け手が違和感を感じてしまい、内容を素直に受け取ることができなくなる。

には同意。
ただ、この作品の「萌え要素」が受け手に違和感を与えるほど方向性と乖離しているかというと、そんなことはないと思うのだが…これも主観の問題か。


最後のこれ↓には頭を抱えた。

この「作品」や「アニメ」を「女」に書き換えると、

それこそがその女のオリジナリティというものでは? それが「好きになれない」のでは、自ら愉しみの幅を狭めてしまうことになるんじゃないの?
「女を楽しんでいこう」とするなら、女のあり方をガチガチに規定しない方がいいと思う。
いい女を楽しめないなんて、勿体無さ過ぎるよ。

それも一つの考えだと思う。「女のあり方をガチガチに規定」せずに「愉しみの幅を」広げて「いい女を楽し」むことは。

「僕がtrue tearsを好きになれない理由」への反応について - のともえ(仮)

分かり易いよう例えてくれたのだろうけど、何か違う意味になってない? 「女を楽しんでいこう」なんて意味深すぎ。
私はプレイボーイじゃありません。(笑)

結論

例え非合理に満ちていても自分の素直な感情に従って、本当に好きな女だけを好きだといいたい。(もちろんアニメの話です。)

「僕がtrue tearsを好きになれない理由」への反応について - のともえ(仮)

それでいいと思います。