私家版「オタクとは何か?」

ノンフィクションライターの大泉さんが、オタクについての連載を始められました。

私は氏の著書「萌えの研究」を読んで、「ハタからみればオタクな人が、何で自分はオタクじゃないと主張しているんだろ?」と素朴な疑問を持ったクチですし、オタクを自認してもいますから、「オタクとは何か?」について私見を纏めておこうと思います。


元々は蔑称だった「オタク」という言葉。 この言葉を知った時は、蔑称としての機能はともかく、ある種の人間をカテゴライズする便利な言葉だと思いました。
以来この言葉の指す範囲は拡がって、「マニア」の代替語のような使われ方をしています。 健康を追求する人を「健康オタク」と呼ぶとかね。 ただこの場合も「傍からみて、ちょっと引いてしまうようなのめり込み方をする人」というニュアンスが込められているようで、そういう意味では今も蔑称としての性格は残っているのでしょう。


私が自分をオタクだと思うのは、私のブログを読んだ人が、多分そういう印象を持つであろうと思うから。 一般人の感覚では理解に苦しむような趣味の取り合わせは、オタクの資質十分だと思っています。 加えてファッションには興味がないし、孤独を好む性癖もありますしね。
でもやはり一番の理由は、世間一般で言われているオタクな人をみて、自分との共通点を数多く見出せることなんだろうと思います。


自分でオタクだと公言する場合、若干の卑下が入っています。 こんな趣味から抜け出せないダメな自分、みたいな。(ただし、本当にダメと思っているわけではないところがミソですけど)
他人に対しては一種の尊称として使いますが、それも当人がニュアンスを汲み取れるかどうかによりますね。 蔑称だと感じる人には、当然ながら使いません。
大泉さんも書いていますが、この言葉には未だに蔑称としての機能が残っているので、使う際には配慮が必要でしょう。

私はブログを通して大泉さんに「貴殿はオタクだと思います」という旨を伝えたことがありますが、それは氏がニュアンスを理解できると思ったからで、もし気を悪くされたのでしたら、すみません。


ところで私が大泉さんをオタクと思うのは、(取材を通して得たであろう)多量のオタク的知識を備えていることに加え、「綾波萌え」という感情を抱いたことがある、という事実によります。 二次元キャラに感情移入できるというのは、立派な資質でしょう。 熱くなり過ぎたところが「耐性がなく一般人」とお考えのようですが、そこは判断が分かれるところだと思います。
「濃さ」については、オタクの重要な要素とは考えていません。 そもそも「濃い」と「薄い」の境界線って、どうやって線引きできるのでしょうか。 オタクの間では序列化に用いられたりするようですが、濃くても薄くてもオタクですよ。
ただ、ディープなオタクが私のことを「オタクでない」と言うのなら、「はいそうですか」と引き下がるでしょうね。 私にとってオタクとは、その程度のものです。 たまたま「オタク」という便利な言葉があったから使ってる、という感じ。


何だかまとまりがなくなりましたが、先に書いた「ちょっと引いてしまうようなのめり込みかたをする人」、これがオタクとマニアの分水嶺なのかも知れないと、この文章を書いているうちに思えてきました。