子猫殺しの真意−坂東眞砂子女史の弁解

動物愛護週間だというのに、何ともやりきれないニュースが入ってきたものだ。

真意というからもっとマシな論陣を張るのかと思ったら、子猫殺しを否定せず、辻褄の合わない言い訳に終始している。
この話題は多くのブロガーが取り上げるだろうが、私もひとこと言っておきたい。

 さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫(あいぶ)するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。

自分もつらいということを「私は自分も殺している」という言葉で表現している。 共感を得ようとしてのことだろうが、実際に死んだわけじゃない。 大袈裟。

 「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。


 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。

避妊手術を「その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる」として否定しているが、女史のやったことはまさに「生き物の生命を絶つ」ことそのものではないか。 矛盾している。
殺された子猫たちだって、魂の底で「私は絶対に(死ぬのは)嫌だ」と絶叫していたかも知れない。

 もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。

「避妊と殺生」について論じているはずなのに、論点が「避妊と断種」へとずれてしまっている。

 他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。

論点がずれたまま、話はあらぬ方向へ。
ペットに避妊手術をして「晴れ晴れした顔をしている人」がどれだけいるか分からないが、大多数は「可哀想だけど仕方がない」と思っているんじゃなかろうか?

事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。

子猫を殺したことが事実なら、思想信条にかかわらず、やはりそれは動物虐待だろう。
坂東女史が告発されようとしているのは、殺害という「行為」が原因なのであって、それを「言論」の弾圧とすり替えるには無理がある。
欧米は日本よりも、動物虐待に対して厳しいという印象がある。 ましてや薬殺などではなく「崖から放り投げ」ているのだから、告発は免れ得ないのではないか。
この文章はナチの蛮行まで持ち出しているが、結局は「親猫の方が可愛いので子猫を犠牲にしました」ということの、苦しい弁解でしかない。


この「真意」に対する毎日新聞(鳴海崇氏)の解説も否定的だが、

坂東さん、そして社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない。

という結び方には違和感を覚える。 多数派・少数派がどうこうではなく、論旨の一貫性・正当性で判断すべきものだろう。
寄稿者への配慮から出た言葉だと思うが、毎日らしさを感じる結語である。


P.S.
おとなり日記」を見てみたら、女史寄りの意見と、全文引用のみで意見のないものが、それぞれ1件ずつあった。

それにしても、全文引用しているエントリが多い。 著作権云々という問題もあるが、それよりも論点がぼやけてしまうんじゃないかと思うのだが。