それは誤解です
のともえ(仮)氏は、私が使い始めた「規定」という言葉について思い違いをしておられるようだ。 それ以外にも、表現の捉え方に食い違いがあって、少し気分を害されたようでもある。 それらの誤解を解いておきたい。
自己規定について
僕の主張をまとめると、まず自己規定をしないということそれ自体が自己規定であるということ。
自分の好みは規定できるか - のともえ(仮)
こう書くと矛盾していて確かにおかしいが、これは「作品のあり方についての規定」と「自己規定」の混同から来ている誤解である。
作品をあるがままを受け入れ、良いところを評価したいと考えているので、そのあり方については規定しない。
「true tears」を巡る、のともえ(仮)氏と私との見解の相違について - しまうま技研
「その」は「作品」にかかる指示代名詞。 つまり私は「作品のあり方については規定しない」と言っている。
要するに
- 作品は、テーマ・ストーリー・キャラクター・世界設定などといった構成要素を、作者が(フォーマットにとらわれず)自由に組み合わせて作り上げれば良い
ということだ。
一方の「自己規定」とは、「『見たい世界』を決め込んでしまっていること」を指す。
僕の見たい世界というのはうる星やつら的な永遠の片思いのユートピアであって、欲望うずまく生のラブストーリーではない
第7話 「ちゃんと言って、ここに書いて」 - のともえ(仮)
「好きな世界」ではなく「見たい世界」と書かれていたので、そこから"嗜好"ではなく"能動的な意思"を読み取って「自己規定」と表現したのだが、氏が嗜好だと言うのだから、単なるレトリックの問題だったのだろう。
纏めると、氏の表現を借りれば私は「作品のあり方を規定しない、ということを自己規定している」ことになるが、これなら無矛盾であろう。 もっとも、「自己規定している」というのは大袈裟だし、そもそもこの部分は蛇足だが。
「女」の例えについて
一般的な恋愛観というと、以下のようなものだろう。
- ひとりの女性だけを愛し続けることは、一般的に美徳とされる。
- 幾人もの女性を(同時に)愛することは、一般的には不道徳と考えられている。
だから「作品」を「女性」に置き換えると、意味合いが逆転する。 しかも「女を楽しむ」なんて、とても不謹慎に聞こえてしまう。
私が氏の例えに当惑したのは、そういうことなのだ。
その当惑を冗談めかして受け流したのだが、その際に使った(笑)が、氏にとっては「茶化された」と感じたのかも知れない。
誤解は解けただろうか?