「ぼくらの」第13話「地球」

マキ編後半。 命を賭したゲームの真相が明らかになる。
第12話「血のつながり」で描かれるマキの家庭は暖かい。 父親が失踪してしまったダイチや、母親の素性を理由に陰湿なイジメを受けていたナカマとはかなり違う。
養子のマキは、弟(両親の実の子)の誕生を控えて不安を感じていた。 それは両親の愛情が全て弟へ向けられ、自分は省みられなくなるのではないかというもの。
しかしジアースの出現で彼女の心は変わる。 自分がいなくなっても、代わりに弟がやってくる。「弟がきっと、お父さんたちを幸せにしてくれる。」
だがこれは、両親から疎外されるかも知れないという不安と、ジアースの操縦者に訪れる死の恐怖を紛らわすために、自分に言い聞かせた口実というものだろう。
結局マキは、弟が無事誕生しても変わることのない両親の愛情を確認して幸せを噛みしめるのだが、それがジアースのコックピットの中だったところが何とも皮肉だ・・・というか、むごい。


前回は尺をフルに使ってマキの心理を丁寧に描写したので、今回はロボット戦プラスアルファに注力できていた。
ダイチ編である第9話「家族」も時間枠内にうまく収めていたが、ナカマ編の第10話「仲間」とモジ編の第11話「命」は尺が足りず、余韻に浸る間もなかったのが残念であった。 特に第10話は、ナカマの心境の変化やコスチュームの意味が描ききれていない気がしたが、森田監督のブログには、その点を指摘したコメントもあったように記憶している。
やはり2話、最低でも1.5話分くらい時間がないと、少年少女たちの生い立ちと心理を描写するには厳しいと思うが、実際はシリーズ構成や資金の面でなかなか難しいのだろう。


さて今回は、マキたちの戦う相手の正体とゲームの真相が明かされたが、これは今後重要な意味を持つことになりそうだ。
敵ロボのコアはやはりコックピットで、そこには彼らと同じような人間が乗っていた。 そして彼らは、彼らの属する宇宙を守るために、凄惨な相克を強いられているのであった・・・この設定には滅入る。 鬼頭氏は(その名の如く)鬼才だと思う。
今回観ていて、少年時代に読んだ「カルネアデス計画」というマンガを思い出した。
「自分が生存するために他者の命を奪うこと」の是非を問うたSF作品で、古代ギリシャの哲学者が提起した問題「カルネアデスの舟板」をモチーフにしている。 Wikipediaでは「カルネアデスの板」として解説が載っている。

これまでは

  • 自分が負ければ、自分の世界が宇宙ごと消滅する
  • 自分が勝っても、自分の命が奪われる

ということは分かっていた。 今後はそれに加えて「自分が勝つためには相手の命を奪わなければならない」といった苦悩を、少年たちは抱え込むことになる。
これに彼らがどう対峙していくのか、今後が楽しみだ。


平行宇宙は「ノエイン」でも設定の中核になっていたSF的概念だが、ノエインのそれは量子論をベースにした現代的なものだったのに比べ、「ぼくらの」はちょっと古典的な概念をベースにしているな、と思った。
驚くなかれ、この概念は既に芥川龍之介の著書「侏儒の言葉」で、ブランキという人物の夢想として紹介されている。

   Blanqui の夢

 宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等(これら)の元素の結合は如何に多数を極めたとしても、畢竟(ひっきょう)有限を脱することは出来ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る為には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。して見れば我我の棲息(せいそく)する地球も、――是等の結合の一つたる地球も太陽系中の一惑星に限らず、無限に存在している筈(はず)である。この地球上のナポレオンはマレンゴオの戦に大勝を博した。が、茫々(ぼうぼう)たる大虚に浮んだ他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戦に大敗を蒙(こうむ)っているかも知れない。……
 これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙観である。
(後略)

芥川龍之介 侏儒の言葉

ブランキの時代は元素が六十数種しか発見されておらず、また「宇宙は無限大」という前提も今日では通用しなくなってはいるのだが、この着想は、当時は画期的であったろう。


・・・


生まれたばかりの弟を腕に抱く夢をみながら最期を迎えるマキに、ちょっと涙腺が緩んだ。 これだから歳はとりたくないよ全く。